5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

☆       (・Θ・)/死刑!      ☆

1 :石原 ◆NnJYjkBPPk :2006/11/27(月) 01:44:28 ID:???


 検察にロクな奴はいない。

     (・Θ・)





2 :私事ですが名無しです:2006/11/27(月) 10:05:40 ID:???
ハイハイ2

3 :石原ストッパー ◆Stop/AB10c :2006/11/28(火) 00:12:55 ID:???
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 | 先生!また石原です!
 \__  _______________
      ∨┌───────        /         /|
        | ギコネコ     __      | ̄ ̄| ̄ ̄| ̄ ̄|  |
        | 終了事務所. /  \   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        |          | ∧∧ | < ふざけやがって!終了だ!ゴルァ!
                    (゚Д゚,,)|  \________________
     ∧∧        .※ ⊂ ⊂|. |〓_ |,[][][]|,[][][]|   ..|  |
      (,,   )     / U ̄ ̄ ̄ ̄ 〓/| |,[][][]|,[][][]|,[][][]|/
     /  つ    | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   〜(   )     |              |  /ノ~ゝヾ
                         (’ヮ’ン  ∩∩
                         (   ) (´Д`)  ̄ ̄ 〜 ゴラァ
                          ∪∪   U U ̄ ̄UU     【完】

4 :私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 10:26:08 ID:???

現状への安住は当をえたものではなかった。
外国の支配あるいは領土の割譲ですら避けようと望むロシアのいかなる政府でも、イギリス、フランス、
ドイツやアメリカ合衆国に国際的成功をもたらしたような経済的および文化的変容を促進することを必要としていた。
工場での蒸気の使用、のちには電力の使用は、経済全体を変貌させた。
工業化した諸国の軍隊は大規模な技術的優位を獲得し、またその国々の教育施設は、
あらゆる社会階級に新たに必要となった知的技能の養成を提供した。
競争相手に遅れてこの課題に着手したロシアの体制は、それを遂行するためのいっそう激しい圧力を経験していた。
問題は特有のものというわけではなかった。
イタリアやスペインのような国々もそれに直面していたし、
アフリカ、アジアおよび南アメリカの国々は今日に至るまでそれに立ち向かっている。


5 :私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 10:26:45 ID:???

生活水準の飛躍的な向上を労働者がすぐには求めないようにするためには、
他の国々と同様に、強力な国家権力が必要とされた。
経済の発展を調整するために、確固たる指導も求められた。
ロシア帝国は専制君主制によって統治されていた。
一六一三年以来ロマノフ朝が統治しており、
選挙による代議制の議会と権力を分かちあった皇帝は一九世紀には一人もいなかった。
政党は禁止された。
公開の集会は厳しく統制され、発行前の刊行物の事前検閲がおこなわれた。
反乱は稀であった。
一七六二年と一八〇一年には皇帝の殺害が起こった
〔前者ではピョートル三世が廃位ののち殺害され、後者ではパーヴェル一世が殺害された〕。
しかしそれは、一人の帝位在位者を別の人物ととり替えたクーデターであった。
エカチェリーナ二世に反対して一七七三年にエメリヤン・プガチョフによって引き起された民衆反乱は失敗に終わったが、
それでさえ根本的な改革の目標をもっていなかった。
一八二五年になって初めて、真に革命的な組織がつくられた。
それは、軍将校と他の貴族との陰謀という形をとった
〔専制打倒と農奴制の解体をめざして青年貴族士官たちが蜂起したデカブリストの反乱〕。
そしてそれもまた、容易に粉砕された。


6 :私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 10:27:24 ID:???

一八二六年に戴冠したニコライ一世〔帝位を継承したのは一八二五年〕と、
彼の後継者のアレクサンドル二世は、絶大な権力を保持した。
皇帝の個人崇拝が促進され、それはおおむね効果的であった。
農民は自分のあばら家の壁に、統治者のイコンを大事に飾った。
そのうえ皇帝の言葉は、まったく文字通りに法律であった。
簡単な口頭での訓令が、立法部のあらゆる法令を無効にした。
君主の気まぐれが勢力を振るった。
そのうえ一九世紀の大臣会議は、イギリスの内閣とはほとんど似ていなかった。
それは共同で審議をおこなうことがなかった。
各大臣は、君主にのみ責任を負っていたのである。
君主はまた、地方政府機関を指導する県知事を任命した。
これらの官僚には巨大な権力が与えられた。
そして地方の警察は、行政的命令によって刑罰を科する権限を有していた。
ロシア帝国は警察国家であっただけでなく、きわめて恣意的に支配される国家でもあった。


7 :私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 10:28:04 ID:???

西ヨーロッパからの資本投入にあまりにも依存しすぎることは危険であった。
それはヴィッテにも理解されていた。
しかし彼は抜け目なく、大規模な資金の撤退は起こらない、と予言した。
ロシアに信用を供与する価値があることは郡を抜いており、また利益は確実であった。
フランスとベルギーの資金が、サンクト・ペテルブルクの証券取引所で率先して景気をあおっていた。
ともあれ外資導入によるロシアの工業発展は、
外国の利益集団の影響をうけて自前の工業化から大きく外れるようなことはなかった。
ロシアはブルガリアではなかった
〔ブルガリアは一九世紀末に積極的な外資導入による近代化を図ったが、諸外国による国家財政管理を経験した〕。
ロシア政府はそれほど容易には脅迫されなかった。


8 :私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 10:28:36 ID:???

こうして一九世紀の政治体制は、農民の土地共同体を保持しようと努力した。
共同体の規制に従って農村の若者は、都市へ仕事をしに行くための許可を村の年長者たちに求めなければならなかった。
そうした規定は、土地をもたない貧民の増大を抑えようとする政府の希望を反映していた。
この願望はかなえられたと考えられていた。
結局、一九一三年には工場と鉱山に三一〇万人の労働者がいただけであった。
しかし労働者階級には他の集団も含まれていた。
鉄道員、建設労働者、給仕、家内工業従事者および家事使用人を加えると、全部で一五〇〇万人という数字になる
(また農業賃労働者が算入されるならば二〇〇〇万人となる)。
これは一八六〇年に対して四倍の増加であった。
成長しつつある工業は、初歩的な学校教育の提供を拡大することを必要とした。
政府はまた、競合するヨーロッパ列強を模倣するために、教育施設と社会施設とを拡張しようと望んだ。
一八六四年から政府は、学校、道路および病院に制限された責任を有する、
ゼムストヴォの名で知られる地方自治機関の選挙を認めた。
また同様の地方的課題を遂行するために、常設の自治体会議が強化された〔県および郡の参事会を指す〕。
中央政府自身は、大規模な学校建設計画にとりかかった。
一九一八年の調査によれば、ヨーロッパ・ロシアの全工場労働者のうち、三分の二は読み書きができた。
また首都の印刷工場と金属加工工場では、ほとんど全員が読み書きできた。
ロシアの労働者がドイツやイギリスの労働者と類似していることは誇張されるべきではなかった。
たいていの工場労働者は、生まれ育った村とのつながりを維持していたのである。
彼らが小区画の土地をもっているのは普通のことであった。
労働者階級の生活はかなり荒っぽいものであった。
拳闘、酔っ払ってのけんか騒ぎや乱暴行為はありふれたものであり、
とくに田舎から出てきたばかりで貧しく暮らしている人々のあいだで顕著であった。
社会の変化の前には長い道のりがあった。
しかし変化は起こっていた。
本を読むことを学び複雑な機械を操作する訓練を受けた「世襲労働者」の非常に大きな層が、ロシアで現れつつあった。

9 :私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 10:29:41 ID:???

有産階級のあいだには、とくに激しい不満分子はまだ広範には存在していなかった。
しかし都市で労働者階級が成長するにともなって、多数の問題が起こるようになった。
ロシアの工場労働者は貧しかった。
多くのものは生活に必要なだけ稼いでいる状態であった。
彼らは仕事場で、過酷で屈辱的な扱いを受けていた。
安全規則はあまねく無視されていた。
職長は、些細な規則違反や根拠のない規則違反でさえも理由にして、労働者に罰金を科すことができた。
時間外労働を除いた平均的な労働日〔一日の労働時間〕は、一八八〇年代には一二時間から一四時間のあいだであった。
住宅は劣悪であった。
大多数の労働者にとって選ぶことができたのは、会社の陰気なバラックか、
あるいは値段が高く、非衛生的で過密な賃貸の部屋であった。
これらの事情は、一九〇五年と一九一七年にロシアの労働者階級を伝説的なものにした反抗的態度を雄弁に説明する。
そのようなみすぼらしさは、ロシアに特有なものではなかった。
世紀転換期までにイギリスやドイツなどの国々の労働者の一部が多少ともより快適な生活を送り始めた一方で、
西ヨーロッパにさえひどく困窮した地域があった。
ミラノの労働者のほとんどは、サンクト・ペテルブルクの労働者より暮らし向きがよかったわけではなく、
この二つの都市では反抗精神が旺盛であった。
すべてのロシア労働者が反抗者であったわけではなかった。
騒擾が起こったのはほとんどの場合は農村からやってきた未熟練で経験をもたない若者のせいで、
彼らが都市に押し寄せて時おり手に負えない暴徒になったのだ、としばしば非難された。
しかしこれでは、バーミンガムにやってきたアイルランド人移民が穏やかであることの説明にならない。
そのうえ、紛争を指導し鼓舞したのが労働者の中のより高熟練でより都市化した層であったことは、
ロシアの工場労働者の紛争から明らかである。
ヨーロッパの他の国と同じように、そうした労働者は闘争をおこなうためのとり決めや組織をもつ傾向があった。
一九〇〇年から一九一三年のあいだに平均実質賃金はわずかに上昇した。
しかしそれはごくわずかな改善であり、ほとんどの労働者の関心をひくような改善そのものではなかった。

10 :私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 10:30:17 ID:???

農民は、一八六〇年代初頭と一八七〇年代末の多少の騒動を除けば、
一九世紀には警察をひどく悩ませることはなかった。
しかし彼らの惨めな境遇は強烈なものであった。
自ら耕作する非常に多くの土地を、とくに一九〇五年以前には、地主貴族から賃借しなければならなかったことに、
農民は憤激した(地主貴族はまた、きわめて重要な放牧地と森林地とを保有していることで忌み嫌われていた)。
このために、農民の収入の増加は大幅に小さくなった。
ともあれ収入増は総計としての数字であり、それは生活水準の多様な段階をおおい隠していた。
たいていの農民は共同体に住んでいた。
政府はこの制度を、お金のかからない徴税機関として利用した。
そのうえ中部および北部ロシアの共同体は、居住している農民世帯のあいだで定期的に土地の割替をおこなっていた。
しかし不平等は続いた。
クラークという名で知られる富裕な農民は、他の農民を労働者として雇用したり、金貸しになったりした。
ロシア農村の貧民は、アイルランドやドイツと同じように、哀れなほどに貧しかった。
しかし、教育あるいは移民を通じて貧しい境遇から抜け出す機会はほんのわずかであった。
またロシアのクラークは、ドイツの並みの小土地所有者と同じくらいの暮らし向きであることはめったになかった。
このため土地問題に注意が集中した。
農民の土地飢餓はほとんど普遍的であり、土地所有貴族は是が非でもその土地を
農民に譲り渡さなければならないという信念を、農民は強くいだいていた。
当時は差別的な法律が存在していた。
一九〇四年まで農民は、軽罪の罰として体刑を受けなければならなかった。
農村の秩序を維持する責任を負い、しばしば貴族から選出された「地方監督官」の制度は、
さらに農民をわずらわせる種となった
〔ゼムスキー・ナチャーリニクと呼ばれる地方監督官が農民自治機関を監督し、民事・刑事の軽罪事件を管轄した〕。

11 :私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 10:31:00 ID:???

サンクト・ペテルブルクにあったそうした一組合のメンバーたちは翌年、
正教会の司祭ゲオルギー・ガポン神父に率いられて動乱を引き起こした。
一九〇二年に騒動が起こったロストフ=ナ=ドヌーは、軍隊の力で鎮圧されねばならなかった。
三年後のサンクト・ペテルブルクを抑えるのはさらに容易ではなかった。
一九〇五年一月九日、立憲的改革と社会改革とを求めるガポンの平和的行進に向かって、守備隊が発砲した。
この「血の日曜日」事件は、ストライキと民衆の行進とを引き起こした。
ポーランド人が都市でバリケードを築いたりグルジアが事実上自治的になったりしたように、
ロシア人以外の諸民族はとくに政府に公然と反抗した。
フィンランド人もまた不穏な状態であった。
そのうえ軍隊は一九〇四年以来、日本との損害の大きい戦争にかかりきりであった。
極東での敗北ののち何百という反乱が起こり、君主制の運命は危機に瀕した。
ロシアやその他の地域の労働者は、彼ら自身の地域的な、選挙で選出された評議会を創設した。
評議会を意味するロシア語はソヴィエトである。
これらの評議会は、ストライキ指導の機能を超えて発展し、行政機関を作り上げた。
政治革命が出現した。
旱魃で収穫が台無しになっていた農民は、反抗的であった。
夏には地主所有地での不法な放牧や木材の伐採が発生し、農業賃労働者がストライキを起こした。
放火事件が増加した。
偶発的な土地の奪取が発生した。
村の共同体が存在しているところでは、それが反地主暴動をとりまとめた。
農民同盟が創設された。
しかし農村の反抗者たちは、この同盟とは無関係に行動した。
何らかの種類の大規模組織が影響力を行使したのは、都市においてであった。
ロシアの家族構造を考慮すれば意外なことではないが、女性よりも男性が多く参加した。
官吏、給仕および失業者のあいだでさえも労働組合が結成された。
街頭に出ていたのは労働者だけではなかった。
企業家は政府の専門的能力に疑いを抱き、憲法を求める最初の要求に加わった。
政党が秘密裏の存在から表舞台に現れた。
黒海艦隊で反乱が起こった。
モスクワ・ソヴィエトのマルクス主義者の指導部は、一九〇五年一二月に労働者の武装蜂起をおこなった。

13 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)