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メール欄にsagaと入れると

1 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 22:05:46 ID:???
下がりません

2 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 22:07:17 ID:???
プギャプギャ━━━m9(^Д^≡^Д^)9m━━━!!!!!!!!!!!!!!

3 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 23:13:30 ID:???
だからって他のスレageんなよバカタレ

4 :私事ですが名無しです:2006/12/17(日) 23:18:54 ID:???
>>1-3
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news7/1151163357/l50

5 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 20:50:53 ID:???

5

昨日の中に今日があるように、今日の中に明日があり、明日の中に今日があるように、今日の中に昨日が生きている。
そんなふうなのが人間の生活だと教えられ、彼もまたそれを信じてきた。
しかし戦争の結果はそうした約束をばらばらな無関係なものに分解してしまったのだ。
いまの久三にとって、昨日と明日は、もはやなんのつながりもないものになってしまった。


6 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:08:23 ID:???

6

いま彼をとらえているのは、不思議に甘い解放感なのである。
彼は中学に上り、成績さえ十分ならさらに上級の学校にも入れてもらえるはずだった。
汽車で二時間半ほど北にいけば昂昂渓である。
そこで本線にのりかえれば、ハルピンまで半日とかからない。
ハルピンには日本人の工業専門学校があった。
今年の学期はじめの進学調査表には、彼はその学校の名前を書きこんだものである。
見返してやるんだよ、というのが母の口ぐせだった。
久三は母にとって、素性の知れない身分から抜けだすための、希望をかけた戦士だったのである。
しぜん彼にとってはあらゆるものが堅固な城塞に見えていた。
そして無意識のうちに、その負わされた任務を憎んでいたのかもしれない。
いま彼が足もとにふんでいるのは、その城塞が無残に崩れさった廃墟のあとだったのである。


7 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:15:53 ID:???

7

警備兵が立上って、その荷物を久三の腰掛にするか、あるいは猫背が久三と位置をかえるべきであることを提案した。
そうしなければ、誰かが便所に出入りするたびに、久三が席をたたなければならないわけである。
むろん猫背がすぐに反対した。
この場所は自分がとった場所だし、体が弱いから風当りの強いところは厭だ。
また荷物は壊れ物だから、上に乗られたりしては困る……
言い合いになりかけたとき、洗面所の男が間に入って、久三に場所を提供することを申し出た。
男が洗面台の上に坐るから、久三は下に席をとればいいというのだ。
猫背はしまったというふうに久三と男とを見くらべた。
たしかにそこはデッキの特等席である。
警備兵は自分のことのように満足して男にうなずいてみせた。

しかし久三ははじめどうしてもその男に気を許せないものを感じて厭だった。
変に動きの早い、さぐるような眼つきが気にかかるのだ。
男は席をととのえるとすぐ眼鏡をかけて本を読みはじめた。
それをみると久三は、こんどは急にまた安心してしまった。
ありふれた黒枠の眼鏡をかけると、男の顔はまるで学校の先生のようにみえるのだ。
それに中国人でこんなときにも本を読めるという人は、よほど偉い人にちがいあるまい。
久三はこの二年間、一冊の本も読んでいなかった。
紙の値段があがったので、引越のときにほとんど全部を売払ってしまった。
残ったのは学生版の粗末な世界地図と、《世界初名物語》の二冊だけだったが、
発明物語のほうは二回以上くりかえして読むことができず、すぐストーブにくべてしまった。
それで彼は本や本を読むことに一種の飢えを感じていたのである。


8 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:16:41 ID:???

11

雪をかきあつめてきて、火の上にかけた。
黒い蒸気がふきあがり、その中に赤い色ガラスのような火の粉が泳いでみえた。
脂くさいべたべたした臭気がたちこめる。
ぐっと冷えこみ、まるで皮をはがれたみたいだ。
アレクサンドロフの部屋を逃げだそうとして、ドアを開けたあの瞬間のことを思いだす。
そのドアの表には希望と書いてあり、しかし裏には絶望と書いてあったのかもしれない。
ドアとはいずれそんなものなのかもしれないのだ。
前から見ていればつねに希望であり、振向けばそれが絶望にかわる。
そうなら振向かずに前だけを見ていよう。
久三はアレクサンドロフの部屋のことを高に話したいと思った。
が、どんなふうに話したらよいか、よく分らなかった。


9 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:17:13 ID:???

12

なにが高を、この二週間もの徒歩行進にかりたてているのか?
なぜ久三を同行者にえらんだりしたのか?

たぶん二週間などというのは出まかせなのだろうと思う。
そのうち、どこか大きな町で、馬車でも雇うつもりにちがいない。
そういうことなら、一人よりは二人のほうが安上りだし、それまでだって、一人よりは二人のほうが心強いというわけだ
――そんな理由はばかばかしいと思ってみても、それ以上考えないためには、そう信じこむよりほかなかった。
さらにつけ加えて言いきかせる。
おれの弱気を追いはらい、しっかり覚悟させようとして、あんな言い方をしたのだろう。
つまり、大人というのは、そういうものなのさ……


10 :私事ですが名無しです:2006/12/22(金) 21:19:54 ID:???

15

そのあと高は、また二度ばかり、胃の中のものを吐きだし、そのままおそろしい鼾をかいて寝こんでしまった。
久三は機械的に、薪をくべ、一と晩じっと坐りつづけていた。
一睡もしなかったように思うが、鴉の声におどろいて目をさましたところをみると、
やはりいくらかは眠っていたのかもしれない。
泣きすぎたために、眼の下が黒くはれあがり、涙のよごれで顔がちぢんでみえた。
高は昨夜とおなじところに、うつぶせに顎をつきだし、よほど苦しんだとみえて、
帽子はぬげ、外套が胸の下でねじれあがっている。
顔一面に吐瀉物がはりつき、乾き、ひげの中に霜になって光っていた。
同じものが、喉にもつまっているのだろう、笛のような音をたて、しかし案外規則正しい息づかいである。

湯をわかして飲んだ。
急に飢えを感じた。
高の食い残しを集めてみる。
ちょうど両手にいっぱい分しかない。
思わず顎がひきつって、奥歯がキリキリと鳴った。
腸詰の小さな切れ端を、まるで足があって逃げだそうとしているもののように、勢いこんでほおばった。
すこしも味がしない。
灰汁をなめているようだ。
飢えと食欲とがべつのものなのなら、そして食欲がないのなら、むりに食べることもないと思ったが、
飢えのほうが承知してくれなかった。
食欲よりもずっと強迫的で、おそろしいやつである。


11 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 13:57:10 ID:???

17

それにしても水がほしい。
水さえあれば二十日間は生きられるのだ。
いくら春のにおいがするといっても、この温度ではまだ雪のままかじることはとうてい出来ない相談である。
苛立ちのあまり体がふるえだした。
いまにも息がつまりそうだ。
この苦しみがしだいにたかまり、やがて限界がきて、身もだえながら死んでいくのだろうか。
そんな限界を考えるだけでもたまらない。
砂漠では、道に迷った旅人が、手首をかんで自分の血をすするという。
ここも砂漠と同じことだ。
おれもいまに自分の手首をかんで血をすするのだろうか。
いや、そのまえにきっとこごえて眠ってしまうだろう。
寒さのおかげで、それほどの苦しみはしないですむにちがいない。


12 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 13:58:44 ID:???

18

「……阿片が中国人を亡ぼしたなんていうがな、そりゃ嘘だよ、亡びるような連中だから、阿片吸いにもなったのさ……
 指導者がわるいんだ……しかしだな、中国人もまだまだ亡びやせん、亡びるもんかい……
 豚みたいに、よく生みやがるからなあ……可哀そうなやつらだよ……」
ふいに語調をかえて、
「君は、ヒトラーの生いたちを知ってるかね?」

「知りません。」

「ヒトラーはただの伍長だったんだ。おれが聞いているのは、その伍長になるまえのことなんだが……」

「知りませんよ。」

「そうか……おれも知らんのだがね。」


13 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 13:59:51 ID:???

20

「おれはね、ただで人を利用するような、人間じゃない……とにかく、たのむよ、な……わるいようにはせん。
 だまされたと思って、きいてくれ。いまに分る。おれという人間は、そこらの下らん人間とはちがうんだ。
 何年かたったら、またおれの噂をきくことがあるかもしれんよ……そうすりゃ、おどろくだろうな、きっと……
 いまのおしゃべりのことなんか、思いだしたりしてな……」

「だって、知りませんよ……ぼくは、あんたのせいで、ひどい目にあったんだ……」

「いや、そうとはかぎらんさ……いまに分る……なんだって、そうだ、ずっと後になってみなけりゃあなあ……」


14 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 14:20:46 ID:???

29

ぼんやり、どこかの、石段に腰をおろす。
口の中が砂でざらざらしていた。
唾をはくと、泥水のように黄色くそまっていた。
これでなにもかも終ってしまったのだろうか。
しかしそのまえに、せめて一杯の水が飲みたい。
高のやつ、今度あったら、殺してやらなきゃいかん……

だが同時に、心の底では、それと正反対の考えも働いていたのだ。
たぶんこのときほど、高をたよりにしていたことはなかった。
もしここにひょっこり高があらわえたら、喜びのあまりきっと泣きだしていたにちがいない。
高は悪人かもしれない、しかし目的にむかってつき進む力をもっていた。
いや、もしかすると、それほどの悪人ではなかったのかもしれないのだ……
たとえばその証拠は、噴水の中におき忘れていった、あのピストルである。
彼はよほどあわてていたにちがいない。
だが、なぜそんなにあわてたのだろう?
ちょうどそのとき、犬が罠におちこみ、高はうろたえたのだ。
彼はもともと久三をなぐる気などなく、曲者と思いちがえて打ち倒し、すぐに気づいたのだが、
罠の音におどろかされ、久三に手当てを加える余裕もなく、とりあえずチョッキだけを持って逃げだした……
そう、たしかにそういう場合も考えられる……
だからこそ、彼は久三の息の根をとめようとはせず、脱がせた外套を上から掛けておいてくれもしたのではないか……
乱暴な仕打ちだった。
しかし舶来の自動車五十台分だとすれば、それもやむをえない仕打ちだったのではあるまいか……
だとすれば、もう一度あの噴水に戻って、待ってみるべきかもしれない、
いまの日本人なんかより、ずっと頼りになる男だった……


15 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 14:21:39 ID:???

馬鹿な、とべつの声が強く打ち消した。
やはりあいつは要するにファシストだったのさ……あいつはただおまえを、隠し場所に利用しただけなんだ……
そして仕事をすませ、もうおまえになんか用はなくなった……つまり、それだけのことだったのだ。
罠にかかったのは、犬じゃなくて、おまえのほうだったのさ……

どっちでもいいや、おれは水が飲みたいんだ……久三は立上ってまた歩きだした。
日が暮れはじめている。
まもなく戒厳令の時間だ。


16 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 14:22:30 ID:???

35

高は生きているんだ。
高にちがいない。
こんなものをあてがわれているのだとすれば、よほどひどいめにあっているのだろう。
久三はコックを説得にかかった。
自分がこれまでどんな苦しみを経てきたか、どんなつらい目をみてきたか、だから自分には高の居所を知る権利がある。
教えてくれればむろんするだけのことはするつもりだ……


17 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 14:23:44 ID:???

「しっ!」とコックは首のぜい肉をふるわせ、大げさにあたりを見まわし、おどけた調子になって
「いいかね、私はいまなんにも聞かなかったよ……どうもあんたは、ちっと口が軽すぎるね。
 向う見ずで、命知らずな連中のなかにいるんだってことを忘れているんじゃないかね……
 くわばら、くわばら、私はなんにも聞きやせんよ。
 まあ、どうしてもっていうんなら、勝手におれからひったくって、事務長のところに持って行ってみるんだな。
 そして、大将にじかに聞いてみるんだね……ともかく、あんたも、このことだけはよく憶えていたほうがいいよ。
 命知らずっていうのはな、他人の命を知らないってことなんだ。
 自分の命じゃない、自分の命は、人一倍大事にする連中のことさ……だからな、そら……」
と調理台の下から瓶をとりだし、アルミのコップに半分ばかり入れて、塩を一とつかみ、
それに水を加えて器用にふりまわし、一気に飲みほしてむせかえった。
「こいつは、まざりっけなしの、薬用アルコールさ。そこで、こっちは……」
と別の瓶をとり、栓を開けて、さっきと同じくらいの分量を、こんどはそっと流し場に流してしまう。
流れる線が、船にあわせて、振子のようにゆれていた。

18 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 14:24:31 ID:???

「分るかね?
 ……いまの瓶は、あのお医者さんからもらったものだがね、物は、おとといの積荷の中にあった、あのアルコールだ。
 正体は知れたもんじゃない。
 ちょっぴりメチルでもまざっていてごらんよ、いくら私が中毒しているからって、たまったものじゃないからね……
 そこで、私は、こういうふうに、飲んだような顔をして、見えやすいところに置いておく……
 いいや、お医者さんのことを、悪人だなんて思っちゃいけないよ。
 あの人はたぶん、この船じゃ一番心のやさしい人なんだ。
 ただ、なんだな、あの人もやはり、命知らずだってことなんだな……
 そして、飲んだようなふりして、瓶を出しておく、私のほうも御同様、命知らずだってわけだ……
 なあに、もっとも、先方でも私が飲んじゃいないってことくらい、先刻御承知だろうけどね……
 だから、あんただって、命知らずの仲間入りするつもりなら、もっと自分の命を大切にすることだね……
 まったく、命知らず同志のつきあいってものは、互いにそのことが分っていさえすりゃ、
 そりゃあ気楽でのどかなものなんだよ……」

コックは大きな溜息をつき、自分のおしゃべりにすっかり満足した様子で、トマト色の額を仕事着の袖でぬぐった。
空罐を久三のほうにおしやりながら、
「さあ、持っていきな、ひったくって……でも私はなんにも聞いちゃおらんのだからね……」


19 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 14:25:39 ID:???

35

……ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐるまわっているみたいだな……
いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない……
もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな……おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。
日本はどんどん逃げていってしまうのだ……一瞬、火花のような夢をみた。
ずっと幼いころの、巴哈林の夢だった。
高い塀の向うで、母親が洗濯をしている。
彼はそのそばにしゃがんで、タライのあぶくを、次々と指でつぶして遊んでいるのだった。
つぶしても、つぶしても、無数の空と太陽が、金色に輝きながらくるくるまわっている。
どうしてもその塀をこえることができないまま……
こうしておれは一生、塀の外ばかりをうろついていなければならないのだろうか?
……塀の外では人間は孤独で、猿のように歯をむきだしていなければ生きられない……
禿げのいうとおり、けもののようにしか、生きることができないのだ……
「アー、アー、アー。」
と高が馬鹿のようにだらしなく笑いだした……
そうだな、もしかすると、おれははじめから道をまちがえていたのかもしれないな……
「戦争だぞ、アー、アー、戦争だぞ、アー。私は主席大統領なんだぞ、アー。」
……きっとおれは、出発したときから、反対にむかって歩きだしてしまっていたのだろう……
たぶんそのせいで、まだこんなふうにして、荒野の中を迷いつづけていなければならないのだ……

だが突然、彼はこぶしを振りかざし、そのベンガラ色の鉄肌を打ちはじめる……
けものになって、吠えながら、手の皮がむけて血がにじむのにもかまわずに、根かぎり打ちすえる。


20 :私事ですが名無しです:2006/12/23(土) 23:00:00 ID:???

かすかに表のドアが音をたてたように思い、あわてて振向いた。
しばらく耳をすませてみたが、もうそれっきりなんの物音もしない。
錯覚にちがいなかった。
しかしなぜか急にたまらなく不安になってくる。
ただの不安ではない。
自分でも説明のつかないほど入り組んだ、恐怖にちかい感情だった。
むろん脱走兵士に対するおそれなどではない。
一般犯人に対する場合のようには、いきなり憎しみがわいてこず、憎しみがわいてこないことで、
憎しみを命ずる者の存在を自覚し、それがいままでは追う者の位置に安定していたために気づかなかった、
追う者と追われる者のあいだの奈落をのぞきこませることになったのだろう。
自責の念にかられて立上り、ゆるさん! とはげしく声にだして言ってみる。
そんなことで不安が去ってくれるわけもなかった。
しかもそれはまだほんの内側の小さな不安にすぎなかったのだ。
その外には、さらに大きな怖れがおおいかぶさってきている。
内側の不安が結局は共犯者の不安であり、村中の誰もが感じるであろう不安であり、
自分までがその不安からのがれられずにいるということが、そのさらに大きな恐れの理由だったらしい。
おれも老いこんだな、と思う。
すると急に怒りがこみあげてくるのだった。
さばかれるときがくれば、いずれさばかれるのだ。
なにもおれ一人で背負っていることはないじゃないか。
喉の奥が変にしめっぽかった。
ストーブの通風口を閉じ、剣をつって外套の襟をたて、外に出た。


21 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:27:11 ID:???

「信じるか、信じないかなんて、問題じゃあるまい。
 説明できなくても、筋さえとおってりゃ、それでいいのだろう。
 そんな説明なら、いくらだってしてやるさ。
 ……いいか、たとえばだな、もしかすると、あんなもの、ことによると、
 ぜんぜん存在なんかしていないのかもしれないのだぞ。
 おれたちが、ただ居ると思っているだけで、本当は、おれたちの単なる幻影にすぎんかもしれんのだ……
 むろん、見えているのは、おれ一人だけにじゃない。
 みんなに見えている。
 皿の食物は空にするし、さわることができれば、あのとおり、鎖でつなぎとめることもできるというわけだ。
 だから、いわゆる幻影とはちがうかもしれない。
 しかし、いわゆる幻影でないということが、そのまま実在の証明になるとはかぎるまい。
 たとえば現代の人間は誰でも地球をまるいものだと思いこんでいる。
 しかし、実際に見たものは一人もいないんだ。
 理窟っぽく言えば、地球ぐらい大きくなれば、もう三次元の世界じゃなく、
 本当は四次元の世界で、その形を目で見えるように想像すること自体がもう不可能かもしれないのだ。
 それでも、人は、いぜんとして見えているかのように信じている。
 ちょうど、お札が、その表面に印刷された数字に匹敵するだけの、金の重みをもっているようにだな……
 つまり、一人の幻影は嘘だが、十人の幻影はいくらか本当に近づき、
 百万人の幻影は、完全な実在だということじゃないか……
 そこで、考えてもらいたいわけだ。
 もしかすると、あれは、おれたち家族だけの幻影で……
 いや、もしかすると、百万人の幻影かもしれん。


22 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:27:54 ID:???

 つまり、完全な実在なんだな、それならそれでもよろしいよ。
 本物の、生きている祖先かもしれないし、あるいはおまえのいうとおり、病気にかかった贋物かもしれない。
 だが、わが家だけの幻影だったらどういうことになる。
 つまりあれは、やはり現実には存在していないわけで、
 それをつくり出したおれたち全家族の実在までが、疑わしいということにはならんかね?
 おれたち自身が、本当は、おれたちの思っているようなものでなくて……
 いや、まて、まだ話がおわったわけじゃない。
 まずこのことを、よくよく考えてもらいたいんだ。
 あいつは、光をみるのを、ひどくいやがるな、そして、おれたちも、これまでいつも、
 あいつを光からかばってやるように心掛けてきた。
 あいつの、あの、哀願するような顔を見るのが、たまらなく厭だったからさ。
 ぞっとするじゃないか、まったく。
 え、そうだろう?……その結果は、どうだ、あいつはつねに人目からかくされていることになった。
 そこで、ちょっとうがってみりゃ、これは実は、おれたちの内心の気持ちであったとも言えるんじゃないかね?
 おれたちは、心の中で、この秘密を、うすうす感づいていたのかもしれないんだよ。
 あいつが、もし、光の中に出て、世界の目にさらされるようなことにでもなったら、とたんに蒸気みたいに消えてしまい、
 ついでに、おれたち自身までが、どこかにふわっと消えてしまうんじゃないかってな……」


23 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:28:27 ID:???

「……わたしは、毎日のように、自分の夢が誰の目にも見えるようにしてやっていた。
 それだのに、誰も、いっこうに関心を示そうとさえしない。
 もの好きから、一度は尋ねる者はあっても、そのあとはもう知らん顔だ。
 巧くいったかね、とあいさつするくらい、当然のことじゃないのかね。」

「うまくいったかね、おっさん?」と上段の男が、だらりと手をおろして、うめくように言った。

「規則というのは、夜になったら大人しく眠るってことだ。
 分らねえんならそのガラス瓶を、また誰かにこわされても知らねえよ。」

さすがに老人も黙った。
すこし不作法で、残酷かとは思ったが、それを機会にぼくも寝返りをうって、ベッドの隅に逃げこむことにした。
しかし、老人はそろそろと自分のベッドから這いだし、廊下をわたって、ぼくのそばまできてしまったのだ。

「あんたにだけは、言っておくことがある。
 わたしは、はじめ、こう思っておったのだ。
 もしあんたにさえ、その気があるのなら、わしのおがくずを、半分、わけてあげてもいいとな……。
 わたしも、もう、年だし、うまく砂糖が出来ないうちに、死んでしまうようなことがないとも限らん。
 せっかく砂糖が出来たのに、それを見とどける者がいないのでは、お話しにもならないわけだ。
 すくなくも半分は、誰か若い理解者に、ゆずっておきたかった。
 ……しかし、もう駄目だね。
 残念だがもう、たのまれても、してやるわけにはいかん。
 夢のない、豚の仲間だと分った以上、あぶなくって、とてもまかせたりはできませんよ……」


24 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:29:08 ID:???

しだいにまた声が高まり、すると今度はぼくの下段の男が、ぶつくさ腹をたてるのだ。

「うるさいねえ……夢なんていう、飯のかわりにもならないものを、誰がほしがったりするものかね。」

「とんでもない!」老人は負けずに言いかえす。「夢なしに、どうやって進歩することができる?
 人間というものはな、どうしても、進歩しなけりゃいかんのだよ。」

同時に、どこからか、陽気な声が、はずみをつけて飛んできた。

「じゃあ、おじさんは、よっぽど進歩したってわけかい?」

すると、あちこちのベッドから、どっと一せいに笑いがおこった。
誰もが睡りこんでいると思っていただけに、老人はよほど驚いたらしく、
いかにも不器用な動作で、思わずぐるりと半廻転してしまった。
屈辱が、小さな無数の痙攣になって、ぶっつかったり押しのけ合ったりしながら、
体の表面を勝手に走りまわっているのが、手にとるように見えた。
しかし、老人はもちこたえた。
意志に無関係にあふれだす息をおさえて、やっとの思いで、言葉にして言うことができた。

「……しんぽ、というものはな……自分一人だけで、するようなわけには、いかんものなんだよ。」

とぎれとぎれに、笑いが消えた。
老人はベッドによろけこんだ。
泣きだすのではないかと思って、耳をすませたが、べつにそんな様子もなかった。
しかし、泣きだしたところで、彼のおがくずを分けてほしいなどと、懇願してやったりするつもりはなかった。
また、明日から、あいさつがわりに、研究の成否をたずねてやったりするつもりも、むろんない。

そんなことをしたところで、老人の孤独には、なんの関りあいもないのだから……。


25 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:29:50 ID:???

「君、現代を動かしている真の政治家とは誰か、知っているかね?……いや、知るまい……
 一般の人は今だに代議士や大臣どもが、政治家なんだと考えている……
 とんでもない話だよ……
 現代の舵をにぎっているのは、われわれ宣伝業者なんだ……
 世論という雌馬と、資本という雄馬を、仲よくならべて走らせる方法を知っているのは、まずわれわれ以外にはないからな。」

「まったくです……」

「どんなふうにやるのか、教えてやろうか……
 まず、ほんのちょっぴり、欲望という種を世論の腹の中にうえつけてやる。
 見えないぐらいの、ちっぽけな種だが、これがわれわれの知恵をしぼってつくり上げた、秘伝の品なのだ。
 くいついたら絶対にはなさない。成長力がまたすばらしい。
 肥料をほしがって、金切声をあげるのだ。頃合を見はからって、上等のこやしのありかを教えてやる。
 そうなりゃ財布の底をはたいても、こやしを買いに出掛けていくわけさ……」

「おまけに、こやしの会社からも、よろこばれます。」

「そのとおりだ……」

「そして、社長は、その秘伝の種の製造技師というわけですな。」

「まったく責任の重い仕事だよ。だからいつも陣頭指揮で、種の育ち具合をよく監視してなければならんのだ……見たまえ……」


26 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:31:13 ID:???

儀式ばった動作で、レバーの一つを、手前におこす。
とつぜん、機械の腹のスピーカーから、低いつぶやき声がもれてきた。

「システムのボックスの声だよ……直接ここで聞きとることもできる仕組だ……これは、イ列の八番だな……」

イの八番がつぶやいている。
――ロビンソンと賭、ロビンソンと賭……ロビンソンは裸……賭けるものはなんにもない……

「必要に応じて、こうして聞いてみる。そして、必要に応じて、ここに直接呼びつけるわけだ。」

「そのとき、当人の帰りを待ちうけて、例の赤ランプをつけてやるわけですな。
 赤ランプというのは、つまり、本人だけにこっそり知らせてやる便法で……」

「ランプを見たものは、くぐり戸をとおってここに来る。
 職場の配置転換や、減俸や増俸や、また優れたアイディアを出したものには、
 更につっこんで考えてみるようにはげましてやる……」

「頭はつねに全回転……」

「守るな攻めよさ……」

「よく分りました……」やっと意見を、口にだして言う。

「つまり、空間効率というような平均的構造は……」


27 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:32:04 ID:???

しかし、社長は、もう私の言葉などには耳をかしていない。
イの八番のつぶやきに、顔のしわまでとりこになってしまっているのだった。

――ロビンソンと賭……ロビンソンは賭けました……
裸で無人島にわたって、一年以内に、文明人の服装をして戻って来たら、三百万円支払うこと……
成立しない賭……馬鹿なロビンソン……

「部長、赤ランプだ!」

「この、ロビンソンをですか?」

部長はしかし、返事を待ったりはしない。
すぐさま壁の受話器をとって、交換台に告げる。

「すぐ、システムにつないで、イ列の八番に急用!」

「しかし、もし二人一緒に階段を降りてきたら、どうなります?」

「もちろん、そうでないときをえらぶのさ……今のシステムはまだ未完成だよ。
 だから、こんどの設計では、ぜひとも万全を期さなければならんのだ……」

いつの間にか機械のつぶやきがやんでいる。
部長が受話器に叫んでいる。

「イの八番、出たんだな?……他には?……一人だけ?……よろしい、了解。」


28 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:32:57 ID:???

「このボタンが、赤ランプだ……」

機械の中央にある、白い円筒型の突起に指をあてながら、思いなしか社長の声は緊張にふるえている。
「ランプがついたぞ……」

「つきっぱなしですか?」

「やつがくぐり戸の把手をまわしたら、自動的に消えるんだ……」

「つまり、この技師さんに、システムの運用を具体的にお見せになるために、
 いまの男をお呼びつけになったというわけですな?」

「馬鹿を言っちゃいかん!」社長は両肘を脇腹におしつけて、胸をつきだした。
「君にはいまのアイディアの天才的な価値が分らなかったのかね?
 イの八番を呼んだのは、諸君なんかとは無関係だ!
 ロビンソンの賭か……すばらしいアイディアだ……
 実に天才的なアイディアじゃないか……
 このアイディアがぴんとこないようじゃ、君も相当……」

「いえ、もちろん……」

「もちろん、どうした?」

「つまり、不可能な賭というわけでしょう?」

「君は馬鹿だよ!」


29 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:34:28 ID:???

ノックの音がした。
部長がとんで行って開けてやる。
イの八番が猫背になって、まぶしそうな表情で立っていた。
肩の下った、紺の背広……
つなぎ目のある、靴のひも……
裾のすり切れた、短すぎるズボン……
それに小さな顎と禿げ上った額……

「入りたまえ、君! 君のアイディアを採用する!」

圧縮された、二た鼓動ほどの間――

「さあ、入るんだ! 君のアイディアで、ダイナマイトをぶちこんでやるんだぞ!」


30 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:37:22 ID:???

「私の、ロビンソン……?」

「裸で無人島に行って文明人の服装で戻ってくる賭だよ!」

「しかし、あれは、ただの連想のうえの遊びだけで……現実には、絶対にありえないことなんですから……」

「一ヵ月以内に成功したら、一千万円だ!」

「そうはまいりませんよ……いくらつまれたって、こんな賭に応ずる者などいはしません。」

「なぜだ?」

「だって、絶対に不可能なことが、はじめから分りきっているんですから……」

「どうしてそんなことが言える?」

「たとえば私の、このぼろ服一つにしてもですよ、これを織るためには機械がいります。
 機械をつくるためには、銅鉄がいります。
 銅鉄をつくるためには、鉱石がいり、石炭がいり、溶鉱炉がいります。」

「それから?」

「それをつくる職工たちに食べさす、食糧がいります。食糧をつくるためには、百姓がいります。」

「うまい!……もう一と息おせば、ちょっとしたキャッチフレーズになるな……
 そのぼろ服一つをつくるために、全国民の汗が捧げられている……いや、弱いかな……
 つまり、すべての他人が、力を合わせて君のために奉仕しているという思想なんだ……
 総務部長、急いでこのキャッチフレーズをまとめてくれ!」

「はあ……」


31 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:39:25 ID:???

「ですから……」とイの八番が弁解がましく口をはさんで、
「この賭が絶対に成立しえないということは、もうほとんど自明の理というべきで……」

「当りまえだよ!
 だからこそこの賭が天才的だと言っているんじゃないか!
 誰もが絶対に不可能だと考える。ところがそこに、大胆な挑戦者があらわれるんだ。
 そして大衆の人気を、一気にかっさらって行く……」

「いるでしょうか、そんな人間が……?」

「いるとも!」

「私には、ちょっと考えられませんけど……」

「現に私の目の前にいるじゃないか!」

「誰です?」

「君だよ!」

「しかし……」

「守るな攻めよ! 挑戦者たることは発案者の光栄じゃないか!」

「でも私は……」


32 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:42:17 ID:???

「信じるんだ!
 出来ると信じるんだ!
 実際に出来るかどうかなんて、問題じゃない。
 とにかく出来ると、信じこむんだ。さて、この大ランプをどこに売りつけてやろう?……部長、どこがいい?」

「さようですな……つまりどういうところが、よろしいのでしょうか?」

「君は馬鹿者だ!……この天才的な大プランのもっている意味が、君にはちっとも飲込めていないらしいな。
 このアイディアは万能だよ。
 すべての心に、無人島で苦闘しているロビンソンの憐れな姿がくっきりときざみつけられるんだ。
 それにつけても、思うわけさ。
 金を出してものが買えるということは、なんてすばらしいことだろう……
 金を使ったのではなくて、物を手に入れたのだ……
 そしてさっきのキャッチフレーズが、くっきりと心の中に刻みつけられてくる……
 たとえば、石鹸で手を洗いながらでも、こう考える……
 この石鹸をつうじて、おれはおれ以外の万人からかしずかれているんだ……
 そして、石鹸のあぶくを見ながら、王侯のような気持にまでなれる……
 すばらしいじゃないか、ロビンソンのおかげで、財布の紐が輪ゴムのようにのびてしまうというわけさ……」

「そうなれば、この賭に応じなかった石鹸会社は、泡も立てずに消えてしまうことになりますな……」

「どうやら、君にも、やっと分って来たらしいね。」

「しかし、いかがなもんでしょう、もし万一この賭に、ロビンソンが勝つようなことがあったりしたら、
 まるで逆効果になってしまうのでは……
 つまり、金をはらって、馬鹿をみたと……」


33 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:45:54 ID:???

「勝ちっこないじゃないか!」

「そうでしょう、ですから私は……」
とイの八番が言いかけるのを、ひらいた手のひらを扇子のように宙にまわして、強くさえぎり、

「君は黙っていたまえ!
 君はもちろん、勝つ気にならなけりゃ駄目さ!
 負けると分った、八百長の賭なんかに誰が関心をもったりするものか。
 私は負けると思う。
 しかし君は絶対に勝つと主張する。
 そこではじめて、賭の興味がわいてくるんだ……」

「でも、私一人が、いくら主観的にそう思ってみたところで……」

「情ないことは言わないで、実際に勝とうと努力してみるんだ!
 ……もちろん、側面からの援助はしてやるよ。
 たとえば、賭金をすこしずつ下げていって、賭の期間をながくする。
 一ヵ月以内なら一千万円、二ヵ月なら九百万円、三ヵ月ならと順に下げていって、十ヵ月目なら百万円ということにする……
 こうしておけば、幾分スリルも出るし、また一般に対しても、
 何ヵ月目に成功するかというクイズを出して、好奇心をあおることが出来るわけだ……
 心配するなよ、君さえ堂々とかまえていれば、かならず信者が出てくるんだから……」


34 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:48:55 ID:???

「新聞記者に、どういう勝算があるのかと聞かれたら、なんと答えればいいんです?」

「胸をはってこう言うんだ。
 もちろんいろいろ方法は考えている。
 しかし今発表しては、興味が半減してしまうだろうから、遠慮しておきたい。
 とにかく、皆さんの御期待には絶対にそむかないつもりである、とかなんとかね……
 まあ、そんなに情ない顔をするなよ、戻ってきたら、ちゃんと賞与はだすんだから……
 じゃあ、部長、どこでもいいから大口のスポンサーに当って、出来るだけ金額をつり上げること。
 これをのがしたら、首つりものだっておどかしてな……
 それから、どこか南方の無人島をさがして、船を一隻チャーターしておけ……」

「本当に、やるんですか?」イの八番の顔は、急に水分がなくなって、しぼんだように見える。

「くどいねえ、何度言ったら分るんだ!
 ……そんなに信じられないのなら、よし、ちょうどここに第三者がいるから、一つ証人として立会ってもらおうじゃないか。」

その第三者というのは、むろん私のことだった。
そして私が、その証人の役目を拒みきれなかったことは言うまでもない。
イの八番にとって、この小男が大事な主人であったのと同様に、私にとっても、かけがえのない顧客だったのだから。

こうしてここに、ABビル社長と、その社員であるイの八番氏とのあいだに、新ロビンソンの賭が正式に成立ったわけである。
(註=ただし、イの八番氏は、即日馘首された。
 その理由は、いうまでもなく、八百長の印象を一般に与えまいという社長の心づかいによるものである。)


35 :私事ですが名無しです:2006/12/24(日) 23:51:52 ID:???

そう……たとえば……ぼくは彼女を自主的に選び、征服したつもりだった。
ところが真相は、ぜんぜんその逆で、ぼくはむしろ食肉用家畜として彼女にとらえられ、
飼育されていたにすぎなかったのである。
いや、考えてみると、それも実は大したことではなかったのかもしれない。
どう言ったらいいのか……つまり……
ぼくが彼女を殺したのは、ほかでもない家畜の運命からのがれるためだったのに、
その結果手に入れたのが、けっきょく飼い主を失った家畜の運命にすぎなかったという……
いや、そんな例も世間にはままあることだ……肝心なことは……そう、多分……
あの家畜としての心情が、あまりにもロマネスクな夢に満ちあふれていたことではあるまいか。
ロマネスクな家畜などというものが、物語の中にしか存在しえないくらい、百も承知していながら、
しかも物語の中に居つづけなければならないのだから、これほど怖ろしいことはない。
ぼくのワイシャツの襟は垢だらけになり、それにもまして、ぼくの心も垢だらけになってしまった。
仕方があるまい、今のぼくに出来ることと言えば、せいぜいそれくらいのことしかないのだから。


36 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 08:17:34 ID:???
このホームページには過激な性描写が、ふ
んだんに、本当にふんだんに、大量かつエ
ゲツなく表示されています! 

37 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 17:39:02 ID:???

「私はこんな具合に考えているのです。
 人間が有用でありうるのは、大きな機能のほんの一局部的存在であることを熱望する意欲のことだと思うのです。
 しかるに私みたいな人間はそれができないで、しきりと全体的なモデルを自分の中に作りあげようとする。
 だからいつまでたっても、本当の意味で世間と出遭うことが出来ないのです……」


38 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 18:21:24 ID:???

現代の都市は、どこへ行こうと、いずれ同じようなものだろう。
ヒューマニズムの上に、完全な個人の理論で設計され、金塊の代りに紙片が通用し得る町……
必然性と可能性を信用貸で両替えできる町……
湧いてくる矛盾を公理主義的な循環論法によって生理学的に排泄する下水装置……
観念と行動の分裂を非難しながらその合致を嘲笑する選良達……
僕だって背中が物を担うために在ることを否定はしない。
しかし、フロイドの説を信頼し、〈名づける〉ことが存在の征服であることを武器としている君達が、
何故実際に物を背負うことを止して、一片の証明書に甘んじたりするのか。
啓蒙主義を否定する技術を持ちながら、なぜ暗黙の了解を人間の良識とみなさざるを得ないのか。

僕はすべての町を憎む。僕にはどんな故郷も、郷愁もない。
とりわけ地球の上では、永遠に引きずり落されて行く背後で、未だ動詞にならぬ存在の中にひそんでいる物や獣たちと一緒に、
人間の敵としてその憎しみを背負うより他ないのではあるまいか。
しかし陪審員達は、愛の場合とはちがって憎しみに対しては一片の証明書さえ発行しようとはしてくれない。
憎しみだけがなぜ仲間外れにされるのか。
これでは嫌でも、自分を人間の敵として告発するよりしかたないではないか。


39 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 18:27:43 ID:???

「駄目だ。やはり駄目だった。なんて重いのだろう。
 もう少し元気が出て、物がもっと軽くなったら……
 しかし、僕が書きたいのは、こんなふうに物が重い間のことだのに……」

じっさい僕も自分自身だけのために書くなどという曖昧なことは考えたくない。
しかし自分自身だけのために書くという表現の存在については考えざるを得ないではないか。
なぜそんな言葉が在り得たのか? また無ければならなかったのか?

そしてリルケの場合、もし神に対してだけ書いていたのだとすれば、それも在り得ることではないだろうか。
さもなければ何のためにマルテの手記からあんな侮りに近い敵意を感じたり、
歯をくいしばってそれに反抗したりする理由があっただろう。
あるいは単に僕の飢えのせいだったのかもしれない。
暗号がより確実になるために投げ捨てた〈名前〉をその虚ろさに委せていきなり吸い込んでしまったせいだったのかも知れない。
だからあの男にも疲れるだけの理由はあったと思うのだ。
しかしそれにも増して書く理由があったと思うのだ。

僕にもやはり書く理由があった。
書くということはどういう事なのか、またなんのために書かなければならないのか、
そういった不安でもそれだけで充分理由になると思うのだ。
書きながら一字一字が復帰の暗号になると、そんな具合に考えるだけでも素晴らしいことではなかろうか。
僕が始終孤独に感じていることだって、あらゆるものが僕の忘却を呼び覚まし、
僕に繋がろうとしている合図であると、そんな具合に考えてみたいのだ。


40 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 18:34:52 ID:???

書くということはまた僕の、そして夜の態度でなければならぬ。
書くことが不安なのは僕が書かずにいられないからだ。
さらに深い夜へ落ち続けるその在り方は、直ちにまた宇宙の態度でもある。
煙草を吸ったり夕刊を手に取ったりする行為の中に、書こうとする行為を投げ入れてやると、今まで静かに物を映していた水面が、
炭酸水の栓を抜いたように泡立ち、界面が無くなってしまうのも、やはり夜の在り方でなければならぬ。
僕は近頃やっと夜ということがわかり始めたような気がするのだ。
そして恋人や芸術や人間や神が宇宙の暗号であり、存在の象徴であり、
夜の、そして僕の態度であることがわかりかけているような気がする。


41 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:16:17 ID:???

思いきっていろいろなところに旅行してみたらどうだろう。
日が沈むたびに僕の胸をくい破ろうとする野獣を好きにさせてみたらどうだろう。
僕の想い浮べるのはねむの木の生えた海辺に沿った細長い町や、山ひだから谷間にかけて土を焼くかまどの並んだ村落や、
生活の滲みこんだ、伝説さえ持っているような古い地方のことだ。
そんな所になら、空気や土で話す人がいるにちがいない。
そんな人達の眼の底の沈殿物がどんな色をしているのか知ってみたら、
老人の顔のように数知れぬ時間が刻んだ生活の皺にふれてみたら、僕も太陽の輝きに歩調を合わせることを覚えられるかもしれない。
太陽は彼らの骨のずいにまで滲みこんでいて、夜の中でもまぶしく光っているかもしれないのだ。

そう、そんな場所では、おそらく生活もあり余っているに違いない。
短い人間の一生ではとても体験しきれないほど沢山の生活が、永遠の繰返しという恐ろしさを忘れさせてくれるかもしれない。
忘れさせてくれぬまでも、驚きに変えるくらいのことは期待できるだろう。
むろん目新しい驚きではないかもしれない。
幾度も繰返されて、ほとんど習慣になった驚き。
驚きながらも、自分独りの驚きではなかったことを知って安心できるような驚き。
果物のように、たわわに実をつえた、驚きの果樹園。


42 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:17:52 ID:???

けれど、僕が絶対に出掛けないだろうことも、たしかである。
生活に憧れながら、それ以上に恐れているらしいのだ。
生活が生活であることを知るだけでも容易なことではないのだから、
まして驚きが驚きであることを発見するまでには、僕の運命の何倍をも必要とするだろう。
僕は自分の驚きを驚くだけでせい一杯なのだ。
この失われた季節、花は枯れてしまったがまだ実を結ばぬ葉むらに包まれて眠る季節を、
僕はこっそり、たった一つの驚きのために驚かなければならないのだ。
たとえば、芝居の終った後、だれよりも熱心に拍手を送っている隣の少女が、じつは盲目であったことを発見した驚き……
そう、僕は決して旅行をしたりなどしないだろう。
けっきょく野獣は僕をどうすることも出来ないのだ。


43 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:19:24 ID:???

日が暮れると、待ちきれぬ思いで、壁から襟巻を外し、電車の中で読む本を探しはじめた。
四、五日乗らないでいると、たまらないほど懐かしくなる、
あの環状線の振動の中に、僕は大事な生活のよりどころまでもあずけてしまったらしいのだ。
ただ終電車までの数時間を、黙って坐り続けるだけのことなのに、
まるで永い旅をおえ、わが家を目指す旅人のように僕の心ははずんでいた。

しかし、襟巻を手にしたまま僕は何かをためらっている。底の抜けた壺のようなとまどい。
何をためらっているのだろう。たかだか襟巻くらいのことで……

――もしやして、春が!

だが、最後まで言うのは恐ろしかった。春は、こんな具合にして来るものだったろうか。
いつからそんな事になったのだろう。
あたりを見まわし、別段変ったものもないのにほっとしながら、窓を開け、乗り出して、注意深く家の外壁を撫でてみた。
そこにも変ったものはなかった。
この冬の初め、やはりこんな具合にして秋が終ったことを確かめてみたことがあったが、
僕にはその時の感触と区別することがどうしても出来ない。
これでもやはり春なのだろうか。

僕は急いで襟巻をしっかりと首にまきつけてみた。別段具合が悪いこともなかった。
しかし、こんなことがなんの役に立つというのだろう。
僕ひとりがいくらきばってみたところで、一歩外に出てみれば、もう多分外套さえ脱ぎ捨てた者が一人や二人くらいは必ずいて……

それならそれでも、構いはしない。春が来ようと、来まいと、〈在る〉という動詞が変ったりすることはないのだから。


44 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:21:16 ID:???

しかし、外は、まぎれもない春だった。

風をさえぎるもののないプラットホームでは、人間もなんとか自然をたぶらかしていたようだ。
レールの向うに、低く、月の光に濡れて凍っている町。
人々は身をすくめ、足踏みしたり、機械的に手をこすりあわせたりしながら、電車を待っている。
しかし、その連中に混って、ここにも春が、なんとか人眼につくまいとおろおろしながら身をひそめていることに、僕は気がついた。
むろん他人の注意をよび起す必要はなかった。
まるでそんなことには気づかなかったように、そ知らぬ顔で襟巻を掻きあわせるぐらいの心遣いは持っていた。

しかし、やがて電車がそんなためらいなどを踏み砕くようにして、走り込んできたとき、
僕の同情はたちまち激しい憤りに変ったのだ。
なんということだろう。どこに行くつもりなのか。
プラットホームにまぎれ込むだけでも、身のほど知らずなのに、春は僕たちと一緒に電車の中にまで乗り込もうとしたのである。
自分のしていることがわかっているのだろうか。


45 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:26:04 ID:???

どうせここまで書いたのだから、ついでにあの男のことも書いてみたらどうだろう。
新宿で山手線に乗りかえるとき、僕のすぐ後から乗り込んで来た様子は、まさしくあの春のおどおどした身振りそっくりだった。
ドアの隅に立って、暗い窓をじっと見つめたまま、ぼつぼつ座席が空き始めても見向きもしないのは、
どうやら他人の視線を恐れているためだったらしい。
しかしそんなやりかたはかえって人の注意をひくものだ。
すでに不審そうな眼差を無遠慮につきつけているものが幾人かはいた。
苦笑を浮べているものさえいた。
気にし出すと男の仕種には確かにこっけいなものがあった。
かわるがわる両手を眼の前に持ってきて、眺め入ったり、
眼や鼻の所在をその手で疑わしげに幾度も撫でまわしてみたり、うまく首が傾いでくれるかどうかをためすように左に曲げ、
今度はそれが巧く元にもどるかどうか不安になって、真直ぐ立ててみたりする。
しかし本当に真直ぐなのかどうか、確信が持てず、次は右に曲げずにいられなくなる。
するとしまいには、その首の運動がもう自分の意志ではどうにもならなくなり、ばね仕掛のように、がくがく勝手に動き始める。
なぜそんなことになるのか、僕にはよくわかるような気がした。
僕の考えでは、どんな人間だってそんなばねを持っているのだ。
コントロール出来なくなるまで、気づかずにすませているだけなのだ。
ばねは決して人ごとではないのである。

さらに電車が半周したころから、ある疑念にとらわれ、僕はますます不安になってきた。
すっかり乗客の顔ぶれが変ってしまったのに、あの男だけは動こうともしないのだ。
あるいは、男も僕のように、生活の一番稀薄なこの揺れ動く都会の罠にかかって、そこから抜け出せないとでもいうのだろうか。
ついに電車は一周した。
しかし男はやはり動かなかった。


46 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:31:41 ID:???

さらに何周かして、車庫入れのために乗替えのときも、男は僕につづいて、また同じ車輛に乗り込んできた。
えぐり取られたように細い顎、窪んだ眼、悲しげな耳、はげ上った薄い髪、そのくせ妙に子供っぽい顔。
男はちらっと顔を上げて僕を見たが、それっきりだった。
その眼は猟師に追われた獣のようにおびえていた。
それから最後の乗替えのとき、それは終電だったが、男もやっと僕に気づいたらしかった。
ぶるっと身を慄わせると、まっすぐ僕のところにやってきて、腰を下ろすなり、
いきなり耳にかじりつくようにして囁いたものである。

――君も……ですか?

唾が点々と顔にはねた。思わず顔をそむけたが、相手はかまわず言葉をつづけ、
――こんなことをするのは、僕だけかと思っていたら……うれしいなあ。もう平気だ……君も、うれしいんでしょう?

そう言いながら、下から僕をのぞきこんでくる。
もしその眼が、それほどの善意と明るさを見せていなかったら、僕はきっと唾を吐き返していたにちがいない。
しかしもうそんな心配はいらなかった。
男はさっさと立上ってしまっていた。

――また、お会い出来ますね。

そして、僕の方に手を触れると、上気した顔を心持ち傾げて微笑みながら、浮々した足取りでドアのほうに歩いて行く。
しかし、ばねの具合はまだ充分でなかったらしい。
次の駅でドアの開くまで、その曲げた首を元に戻すのに、例の妙な運動を繰返していたし、
微笑を引込めるためだろうか、頬の筋肉をぴくぴく動かし続けていた。
しかし、そんなことはもうなんでもないことだった。
いずれにしても、もう春なのだ。

47 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:35:18 ID:???

あれからもう一月以上、僕はなにも書かずにただ何かを待っていた。
何を待っていたのだろう。
いやそれよりも、いままたこうして書きはじめている理由がわからない。
僕にわかっていることは、今から書こうとしており、現に書きはじめているという、この事実だけだ。
そうなるとむしろ、思わせぶりな一カ月間の沈黙のほうが気にかかる。
あの沈黙の期間と、今との間に、いったいどんな相違があるというのだろう?
けっきょく、書くという行為と、書かないこととの間には、大した区別はないのかもしれない。
書くというのは、たぶん、そんな程度のことなのだろう。
たとえば、一生道だけを書きつづけた、あの画家の場合のように。


48 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:37:23 ID:???

道は多くの画家たちをひきつけたが、まだあんな具合に画いたものは一人もいなかったはずだ。
それは彼が、単なる道だけでなく、人物や動物や抽象画まで、すべて道として観察しつづけてきたからだ。
そればかりか、何度か道を自分で作りさえした。
道路人夫になったことさえあるという。
画かれた道はそれが道だとわかるだけでなく、他のものに置きかえられる美しさであってもならず、
すべての人、それを見たことのない人の記憶にまではっきりよみがえってくるものでなければならぬと考えていた。
また、道は道路を目的とするばかりでなく、他の何かではない総てという、極度な排除と集中の結晶だというのが口ぐせだった。
むろんそんなことを知らなくても、彼の名さえ知らなくても、あの絵を見れば誰でもすぐわかることだ。
とりわけ「塀」と題した、白っぽい道……
その両側には、ただ部厚い塀がどこまでもつづいて、時折赤い瓦がのぞいたりしても、それは主題からはほど遠い。
道以外の世界が、いかに道から遠いものであるかを物語っているにすぎないのだ。
また片隅に一本大きないちょうの木がそびえていたりする。
その絵の中で季節を示す唯一の存在だが、それも道の境界を明示するものとして画かれているにすぎない。
僕らはそのところでただ道だけを呼吸すればいいのだ。
白っぽい基調の上に、それは対照的な暗い色で示される。
また塀からは、見ようとすれば限りなく、道を見ている自分自身の顔のように多くのものを引出すことができそうだ。
道に対する嘲笑、押しつけられた暗さに対する抵抗、また哀しさ。
……また道は子供らの遊び場になる。
そこを住いにするどん底の人たちがいる。
しかし僕らがこの絵から感じるものは、単に停止した道の記録だけではなく、いわば道の結晶作用なのだ。
たしかに、他のものでなくなろうとする努力だって、じゅうぶん画かれる権利があるはずだ。


49 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:43:42 ID:???

だから彼自身よりも、僕のほうが彼を愛していたのだと言えないことはないと思うのだ。

彼というのは、むろん例の医者のことである。
病院はつねに僕の路上にあった。
細かいことはともかく、僕はいつも病院の臭いに引きよせられていたらしいのだ。
ヨードや、クレゾールや、アルコールや、エーテル、それらが重なり合ってつくる、あの特有の臭い。

その臭いをもう一度確かめようとしたわけは、あの薄暗い廊下の高い天井に、
恐ろしいほどの圧力でみなぎっている静けさのためらしかった。
その中では、すべての者が苦痛そのものになりきって、ただじっとうずくまっているしかない。
病気自体になりきることで、人間をやめてしまえた人びとが、ただじっと息をこらして待ちうけている。
注意して見れば、これほど見飽きない風景も珍しい。
まず患者には、かならずつきそいの人間がついていた。
精神科であったためか、その二つの結びつきはいっそう個性的だった。
二つが一緒になって、やっと一人の人間をかたちづくっている。
例えば僕のすぐそばの少女と母親を見ても、切りはなしては考えられそうにない組合せだ。
母親は絶えずむすめの両手を、膝の上にしっかりおさえつけている。
なぜそんなことをしなければならぬのか。
じっさい母親が足元に落ちたハンカチを拾おうと、身をこごめた刹那、まったく予期したとおりのことが起きたのだ。
ふいにむすめがうめく。
それから自由になった手が、勝手な行動をしはじめ胸にそってはい上ったと見るや、
ためらいもなく襟にくい入り、いきなり服を左右に引裂いてしまったのだ。
母親も負けずにすばやく、また少女の手を捉えていた。
とっさに僕も、いろんなことを理解しはじめていた。
裂けた上衣を気にもとめず、むすめはじっと前を見つめる。
ただ前を見つめている。
そしてその娘を、母が見まもる。


50 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:46:46 ID:???

そのとき、予診室と白いエナメルで書いてあるドアが音もなく開いた。
長い廊下に、光の輪廓でくまどられて並んでいる、沢山のドアの一つだった。
しかしなんのために開いたのかわからぬままに、またすぐ閉ってしまう。
誰も出てはこなかった。
ただ一塊の光がほとばしった。
まるでそのドアが、光を呼吸する生物の気孔のように見えた。
僕でなくても、永いこと待ちくたびれていた人々は、その光の圧縮された動作に強く共感したにちがいない。
光の束は、ありったけの速さで壁をすべり、うずくまる人びとをはねこえて行く。
むすめのところでも同じことだった。
前のめり気味になっていたむすめの上では、ひとしおしぶきも激しかった。
そして、その瞬間、むすめは恐ろしいほど美しく見えた。
それに狂気の美しさは、妖怪のように眼底にしみついてしまって、なかなか離れてくれないのだ。
だからむすめは、常に母親と並んでいなければならなかった。
もしかすると、誰だって自分の中に、おさえつけていなければならぬむすめを持っているのかもしれぬではないか。
一つの発見だったと言ってもよい。
妄想とは僕らの中の、そんなむすめのことではあるまいか。

しかし、いよいよ僕の番がきて、名前を呼ばれたとき、もうすっかり病院へきた目的をはたして、
これ以上長居する必要なんかないような気さえしていた。
僕の時間を、少しでも他の患者たちに分けてやるために、なにか口実をみつけて診療を受けずにすませる口実を考えていさえした。
しかし医者は僕を忘れずにいてくれた。
その微笑を拒むわけにはいかなかった。


51 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 19:51:11 ID:???

――どうです、やっと決心がつきましたか。

だが僕の心ははずまなかった。
彼は終始微笑み、何げない顔つきで脈をみたりしながら、鋭く僕を観察しつづけている。
僕の気持はこわばる一方だった。
しかし僕の片目に大きなレンズが当てられ、いわれるとおりに白い無限を見やったとき、なぜか急に心がなごみはじめていた。

――なにしに来たんです? 怖いのじゃありませんか?

――怖くはないが、診察してもらいに来たわけでもない。僕はきっと、何かの観念をさがしに来たんだと思いますね。

医者は笑い出した。

――恐がっている方が、まだしもだ。
ずっと以前、僕の知っている患者で、医者から医者へ渡り歩き、
僕のところへ来たときには二百通からの診断書を持っている男がいましたよ。
だからと言って非難はできない。
あなたにも、遠慮なく、真似をしてもらいたいものですね。

僕はともかく、素直にうなずくよりほか仕方なかった。

外に出ると、臭いと一緒に病院の雰囲気も力を失い、僕は次第に乾燥し、色あせはじめる。
貧しい言葉……貧しすぎる言葉……


52 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 20:18:23 ID:???

目が覚めたのは薄明の頃であった。
窓のガラスはちょうどあの汽船のスクリューが尾をひいて残してゆく、白っぽく泡立ちながら光る海の色をしていた。
それ以外の特徴はまるでなかった。
一体たそがれなのか、夜明けなのか、僕はためらわざるを得なかった。
しばらく待ってみたがそれ以上赤くも青くもならず、粘っこく貼りついたような落着きはらった色調だった。
あの感じを表現する巧い言葉がどうしても見当らぬ。
少々うろたえて時計を見ると、あいにくなことに変な時間で止ってしまっているではないか。
えいままよと眼を閉じて、僕は自問自答しはじめていた。

――俺は一体どちらを待ちうけているのだろう、どちらが望ましいのだろう? たそがれ、それとも夜明け?

気分から言えば至極さわやかだった。
僕はきっと驚いたような顔つきをしていたに相違ない。
目覚めははじき出されたように唐突だったし、過剰な休息感は、なめらかなピストンのように音もなく全身をすべりつづけ、
世界中がかすかにほてり充血しているように思われていたほどだ。
従ってあの自問自答も、だだっ広くのび切った意識の悪ふざけでなかったとはいえぬ。
恐ろしく緩慢で無意味だった。
それに答えるきっかけさえ見当らずに、たどたどしくいつまでも繰り返すだけであった。

――たそがれ、それとも夜明け?


53 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 20:21:08 ID:???

まったく、あの唐突な目覚めにふさわしくきわだった緩慢な思考だった。
さっきからもう一時間以上たっているのに、いっこう変化のない空の色を不審とも思わず、ふてぶてしく構えこんでいたものだ。
もっともこんな考えがちらと頭をかすめたのは憶えている。

――ふん、これはきっと時間の流れが遅くなったのか、それとも俺の歩きかたが速すぎるかどちらかだな……

そして、それだけに、あの解答も唐突だった。

――どちらでもない! 今だ、今のままが問題なんだ!

どこからそんな答が出てきたのか見当もつかなかったが、ともかく僕はがばと歯寝起き、
あわただしくあたりのものを?んだり投げ飛ばしたりしながら、急いで外出の用意をし始めていた。
不安さえよみがえっていた。幾度も空の色が変らぬのを確かめたりして、僕はすっかり気を病んでいた。

――夜明けでも厭だ、たそがれでも厭だ、このままでなければいけない……。
どちらでもなく、両方。
現在が何かに変るのを待ったところで仕方がないじゃないか。
俺はなんにも待ってなんかいはしないよ。
待つなんて、くそっくらえだ。


54 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 20:25:44 ID:???

ものの名前など、その本質にくらべれば、影のようなものにすぎぬとあなたがたは言うかもしれない。
いや、影を失った人間の不幸については、ひろく人に知られた物語があることだし、
わざわざ影を買ってあるく悪魔の存在さえ言いつたえられているほどだから、
名前などもっと下らぬ仮の約束事にすぎぬときめつけてしまうかもしれない。
アダムの不幸も知恵の実がその名前という衣裳をまとう作法を教えたときから始まったという。
しかし、本当だろうか? 本当にその不幸以前にあったものが幸福だったのだろうか?
もしかすると、幸福もその作法と同時に始まったのではないだろうか。

だが、ともかく、現代においては、たしかにその作法は不幸しか意味しなくなってしまったようだ。
あなたがた、考え深い人たちが、口をそろえて侮蔑する下らぬ仮の約束事に、我々の多くが呻吟している。
なぜだろう?
それが原罪だと、まだ誰も見たことがない神は語り、名前の衣裳をかなぐり捨てよと道を極めた人たちは語った。


55 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 20:31:44 ID:???

むろん我々だってそんな作法を有難いなどと思ったことはない。
誰も衣裳に別段の執着なぞ持っていはしない。
本当に裸になっても差支えないのなら……が、なんだって、警察は裸体をとりしまったりするのだろう?
そういうあなたがたが、その下らぬ、約束事を約束に従って裁断した衣裳をまとわねばならぬのはなぜなのか?
この不合理をなんと解釈すればよいのだろう?

それとも、こうした様々な不幸の原因は、要するに衣裳がぴったり身につかぬという、極く単純な事だったのだろうか……
と、考えられるわけは、もうアダムの時代とは異って、
ごく特殊な人を除けば自分勝手に身に合った衣裳をつくったり特別誂えしたりするわけにはゆかず、
偶然そんな衣裳にゆきあたる幸運にめぐまれるのでもなければ、
規格に合った既製品に、こちらから体の寸法を調節してごまかしでもしないと生きてゆけないというのが現実なのだから……
だから、わたしたちがぴったりとした衣裳をと願うのは、決してぜいたくな心からなどではないのです。
天国にしか幸福はないと主張するあなたがたは、衣裳の合わぬ不幸についてはなにひとつ知らない。
まさに我々が不自由な衣裳をまとった獣にすぎないということを……
つまらぬ仮の約束事にしかすぎぬ名前が、いかに我々の日々に大きな悲しみを浸み込ませているかを……例えば、


56 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 20:36:45 ID:???

「恐ろしいのか? この世に、命のない、夢のない、脱け殻のような衣裳だけが残るということが……
 だが、自分自身が過ぎてゆくものの中に残されたとき、過ぎてゆくもののことはもう考えるな。
 いずれまた獣の内部から、新しい衣裳が芽生えてくる季節がやって来るのかもしれない。
 それを知っている獣だけが生きのびるのだ。
 名前をすてずに、約束の世界から救い出し、背負ってゆく力をもった獣だけが……
 自分の名前を捨てようとする、弱い獣は、たとえばお前の獣たちのような……
 だからと言って、そうした獣を咎めることもできない。
 世間にはそんな獣たちが満ちあふれているのだ。
 怖がることはないのさ。
 罪もなければ罰もないのだからね。
 お前も自分の獣を許してやるがいい。」


57 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 21:34:16 ID:???

 4.ビリー・ボーイ一派と一戦


58 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 21:37:34 ID:???

廃墟のカジノでビリー・ボーイ一派〈ドルーグ〉と出くわした

ご存じのイン・アウトを演じるハラさ――

泣き叫ぶデボチカに乗って


これは珍しや 悪臭デブのビリー・ボーイ

むき出しで――

はしたなや

なんじは腐った油を詰めたボトル

ヤーブルに一発キメてやる

去勢豚にもヤーブルがぶら下がってればの話だ

かわいがってやろうぜ


警察だ! 逃げようぜ!


59 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 21:39:31 ID:???

 5.紛れなき田園の闇


60 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 21:44:51 ID:???

デュランゴ95の調子はなかなかのホラーショー

いい振動がガティワッツにビンビン来る

すぐに木立と闇ばかり

紛れなき田園の闇

夜の旅人たちを少しばかり――

フィリーしてやった

それから西へ向かった

次のゲームもご存じのサプライズ訪問

あれには燃えたし 笑えた

いつものように超暴力〈アルトラ〉大放出さ


61 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 22:04:21 ID:???

 6.邸宅


62 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 22:13:29 ID:???

だれかな こんなに遅く

見てくるわ

どなた?

助けて下さい ひどい事故で

友人がひん死の重傷です 救急車を呼ばないと

電話はありません どこかよその家へ

一刻を争うんです

だれかね?

若い男よ 事故なので電話を貸して欲しいって

入れてやりなさい

ちょっと待ってね

夜は だれも入れないのよ


63 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 22:16:25 ID:???

ピート 全室チェックしろ

アイム シンギン イン ザ レイン

ひたすら雨に唄えば

なんとすばらしい気分

幸福感に包まれて

雨雲にも笑いかけ

空は暗くとも 心には太陽

愛にあふれてる

雷雲に追わせよう

皆を通りから追い払おう

雨よ 降れ降れ

ほほえみを顔に乗せ


64 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 22:24:15 ID:???

わたしは歩く

路地の先まで 幸福感をリフレインして

わたしは唄う

ひたすら唄う

雨の中で


65 :私事ですが名無しです:2006/12/26(火) 22:34:59 ID:???

なんとすばらしい気分

幸福感に包まれて

心の中には太陽

愛にあふれてる

雷雲に追わせよう

皆を通りから追い払おう

雨よ 降れ降れ

ほほえみを顔に乗せ

ビディーだ おい こっちを見ろ


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